日本の高度成長期に水産業によって全国に名を馳せた焼津市。
しかし、その後は時代の流れとともに水産業が低迷していく中で、焼津市にも沈滞ムードが広まりつつあった。
そのムードを打開すべく「徳川家康が焼津にだけ認めた八丁櫓」の原寸大の和船を復元建造し、焼津のまちおこしに力を注いだ男たちの物語を追っていく。
取材を受けいただいたメンバー
(土屋さん、多々良さん、富永さん、長谷川さん、大草さん)
八丁櫓の概要 全長13m最大幅4.3m重量4,700kgの木造和船。
船を進めるための櫓が八丁(本)ついていて、小回りが利き魚の群れを追うことに適していた。
焼津の未来へつなぐためのシンボルは「八丁櫓」
「徳川家康は1607年駿府城に移り、大御所として権威を握りつづけた。
家康が焼津から久能に船で渡る際、自分の船の警護を焼津の鰹漁船に任せた折り・・・。
江戸時代には軍事上の理由から漁船をこぎ進める櫓は最大七丁と定められ、速度が出る八丁櫓はご法度だった。
幕府の許可がなければ、八番目の櫓を漁船は使えなかったのだ。
ところが、懸命に櫓を漕いでも焼津の鰹節船は家康の船には追いつかなかった。
家康に早くしろと催促された漁夫は困惑し「これ以上船の速度を上げるには、禁止されている八丁の櫓で漕ぐよりほかに手立てはありません」。
家康は「よしやってみい。許す」
八丁の櫓で家康の船に追いつき、家康の船の護衛を無事つとめた焼津の鰹漁船。
大役を終え大御所のお墨付きをもらったのを機に、焼津の鰹漁船だけに八丁の櫓が許可されたのであった。」
〜焼津と八丁櫓の由来より〜
まんがでの八丁櫓むかしばなし
時は1990年代前半。
水産業の低迷により焼津市の経済も、街中も以前のような輝きを失いつつあった。
そんな状況に焼津の未来に危機感を感じた有志が集まり「やいづ都市デザイン会議」を発足させた。
会議の中で沈滞気味な焼津市を活性化させるシンボルはないか、いろいろとメンバーからの意見を募り話し合いが行われた。
そんな折、会のリーダーである長谷川さんが、図書館で焼津の漁業の礎(いしづえ)となる鰹漁船「八丁櫓(はっちょうろ)」についての歴史的事実に行き着いた。
徳川家康が認めた鰹漁船「八丁櫓」の歴史的事実を長谷川さんから知らされた会議のメンバー達は大いに盛り上がった。
その後、焼津の未来へつなぐためのシンボルを「八丁櫓」と定めて、有志のメンバー達は原寸大の和船への復元、建造、そして、まちおこしイベント開催などの焼津のPRの旅へと舵をすすめっていったのであった。
八丁櫓の復元、建造、航行へのいばらの道
しかし、焼津の未来を夢見る「やいづ都市デザイン会議」の有志のメンバー達に試練が降りかかった。
当時、「八丁櫓」の原寸大の和船を復元、建造させるには、3つの大きな問題があった。
一つ目は、焼津市民が市を活性化させるシンボルとして「八丁櫓」に賛同して協力してくれるのか?
二つ目は、復元、建造に関わるお金を集めることができるのか?
三つ目は、航行するための櫓を漕ぐ人材を集めることができるのか?
大きな問題はあったが、3つの偶然も重なっていた。
当時、焼津市には全国で数少ない船大工の近藤友一郎さんが焼津市に存在しており、また、櫓を漕いだ経験があり、みんなに操船指導ができる漁船員OBの鈴木一男さんの存在もあった。そして、「八丁櫓」の設計資料が焼津にまだ残っていた。
そんな幸運にも助けられ、「やいづ都市デザイン会議」の有志のメンバー達は苦難にもめげず、さらなる動きをみせ、各方面から焼津のまちづくりに協力してくれるメンバーや支援をしてくれる財界人を増やしながら「焼津八丁櫓復元建造推進会議」を1995年に立ち上げ、約2年後の「八丁櫓」完成、お披露目、進水まで加速していったのである。
当時は、インターネットも普及しておらず、ましてやSNSなどもない時代。
メンバー達は役割を分担しながら自らの足で動き、焼津全体に「八丁櫓」の復元、建造の呼びかけを行っていった。
地元の新聞に「八丁櫓」の記事の掲載をお願いしたり、お祭りなどでの街頭募金活動や、地元の企業、行政機関に回っての寄付、支援の陳情。そして、多くの市民に「八丁櫓」の復元・建造を知ってもらうために焼津市中約1kmの櫓船の原木杉材の引き回しパレードも敢行した。
市民に協力をお願いした当時のチラシ
積極的な活動によって焼津全体にまちおこしの輪も広がり、1997年12月苦労の末、「八丁櫓」がなんとか完成した。
市民へのお披露目では、焼津駅から昭和通り商店街を経由して城之腰海岸までの約2km、「八丁櫓」を引き回してのパレードを行い、その後進水へとこぎつけたのであった。
最終的には2隻の「八丁櫓」が出来上がり、市民からの名前を公募して1隻目を「たける」2隻目を「たちばな」と命名された。
「今思えば笑い話になりますが、「八丁櫓」の復元、建造は最初の概算では1千万円であがるかと思っていた。しかし、結局「八丁櫓」の完成には2隻で3千万円かかってしまいました。焼津のみなさんの善意と、メンバーのみんなのがんばりで2/3の2千万円の募金は集まりましたが、残りの1/3の1千万円は集まらなかった。でも、焼津の皆さんの好意もあり、なんとか募金を集めながら順次返済していきました。」
(長谷川さん談)
なにはともわれ、「八丁櫓」は復元、建造の荒波を乗り越え順調に帆をだし、櫓の漕ぎ手を伝承させる「八丁櫓の会」の結成、八丁櫓でのまちづくりの企画・運営をおこなう「焼津八丁櫓まちづくりの会」の結成と、2つの会に分かれ役割を分担し、会のカタチを大きくしながら活動の場に進んでいったのであった。
市内、日本各地そして海外へ焼津のまちおこしのシンボルとして航海にでた八丁櫓
復元、建造された「八丁櫓」は、その後20数年にわたり焼津市内、静岡県内、全国そして海外へと活動を広げていった。
焼津市内では毎年秋に「オータムフェスタinやいづ」と共に開催される2隻を使った「八丁櫓大競漕大会」を皮切りに、「焼津みなとまつり」や「大井川踊夏祭」での試乗体験、近隣の小中学生の櫓漕ぎ体験乗船実習などを定期的に行っていった。
このイベントで、大人から子供まで多くの焼津市民に「八丁櫓」の乗船、櫓漕ぎ体験をしてもらい焼津の歴史や伝統、そして豊かな海との関わりを伝えてきた。
そして、その活動は2001年の「第21回全国豊かな海づくり大会」を焼津港で開催するきっかけにもなった。
焼津港での八丁櫓大競漕大会
県内、県外では各地の祭りでのパレードの参加。駿府城のお堀に「八丁櫓」を浮かべての試乗体験。大島波浮港開港200周年記念での焼津から伊豆大島までの9日間の航海。静岡県「東海道400年祭」のイベントで尾張(名古屋港)から静岡県5港と神奈川県3港をめぐりながら江戸(東京港)までの16日間の航海。
名古屋から東京までの航海の報告書
また、東京港開港60周年イベントで開かれた国際帆線パレードの参加など、様々な外洋航海や、開港でのイベントに積極的に参加して焼津の名を広めるためのPRの活動も行ってきた。
「晴海埠頭で開催された国際帆線パレードは特に思い出として残っているね。パレードでは世界最大の日本の帆船「海王丸」やロシア、イタリア、韓国などの名だたる12帆船の一番最後の大トリで櫓を漕いで航行し、日本古来の外洋航海和船と紹介され満席の観客に大歓声と万雷の拍手をもらったことは忘れないよ」
長谷川さんはそんな思い出も語ってくれました。
東京港海港60周年記念帆船パレードの報告書
そして、「八丁櫓」は日本だけでなく海外へも進出していく。
2008年にはフランス・ブレストで開かれた第5回世界帆船フェスティバルにも大勢で参加。
また、このフェスティバルの参加が縁で焼津市の友好都市でもあるオーストラリア・ホバート市で開かれた2011年の木造船大会にも参加することになった。
「フランスのブレストの最終日。もう船をしまおうかと準備をしている時に、八丁櫓を一目見るためだけに、わざわざ日本の三重県から一人で来てくれた女性がいたんだよ。その後、せっかくなので女性を乗せて航行したけどあれはいい思い出だよね。それと、八丁櫓を漕いでパレードを航行している時、海外のクルーズ船が日の丸の帆を見て近づいて来て、船からマイクで日本語のエールをもらい船の乗客から拍手喝采をもらったことは今でも忘れられないなぁ。」
「ホバートでは、コンテナ船で運んだ時の赤道の暑さで木材が縮んで船に隙間ができてしまったんだよ。八丁櫓を港に浮かべたのはいいが、海水が染み込んできて船が傾いてしまってね。船が沈まないようにみんなで一緒になって海水を汲み上げたことも懐かしい思い出だよなぁ」
皆さんは海外での航行のいろいろな思い出も語ってくれました。
八丁櫓の現状と今後どうする?
焼津の未来へつなぐためのシンボルとして活躍をした2隻の「八丁櫓」は、今どうしているのか?
現在、「たちばな」は現役の船としての役目を終え2019年に焼津の大覚寺全珠院に寄贈され、一般の人も見学できるよう展示されている。
もう一隻の「たける」は現在、食品会社の倉庫で修理は必要ではあるが、もう一度航行できように保管、管理されている。
2019年大覚寺全珠院に寄贈された「たちばな」
「約30年間、焼津のまちおこしのシンボルとして有志のメンバーからさまざまな焼津の仲間をつくりながら「八丁櫓」の活動に取り組んできました。近年コロナ禍などの影響もありイベントなどの活動ができていないんだよね。また、活動当初から関わってきた会のメンバーもみんな年をとり高齢になってしまった。年をとったので昔のように会のメンバーが活動することが難しくなってきているんだよ。」
また、「次の世代にも継承はしていきたいが、和船を修理して維持、管理していくのも定期的にかなりのお金がかかってしまう。「八丁櫓」を木材だけでなく今の船で使われているFRP樹脂などを使って修繕して維持、管理していく方法もあるんだが、それでは復元、建造した当初の想いと違ってしまうんでね。今後については、色々な選択肢もあるので、検討をしているがまだはっきりとしていないんだよ。ただ、原寸大の和船は現在もう一度作ろうと思っても作れない。作れる人がもういないからね。」
と皆さんは現状を語ってくれました。
最後に…
今回、「八丁櫓」の活動にかかわった方への取材や当時の資料をお借りして調べてみてわかったことは、約30年間という月日をかけ相当な人的労力とお金をかけ、「八丁櫓」を、まちおこしのシンボルとかかげ奮闘してきたことに脱帽せざるを得ない事実であるということ。
大河ドラマ「どうする家康」で徳川家康が話題になる今年。
この物語を知ることでもう一度、徳川家康が認め、焼津の漁業の礎となった「八丁櫓」を
・・・どうする〇〇・・・?
焼津の市民のみなさんや市外、県外の方々、是非考えてみてください。

焼津まちかどリポーター
ひろっち
藤枝市出身。仕事、人との交流などで焼津との関わりが深くなるに従い焼津への理解が深まり、焼津の良さと素晴らしさを伝えたいと思いまちリポに参加しました。様々な経験をし、全国各地(現在41都道府県)に行く機会に恵まれました。他の方とは違った視座、視野、視点で焼津の魅力を伝えることができればと思います。
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