2018.03.20

潮騒に耳を澄ませ富士を眺める

焼津ゆかりの文学者、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が初めて富士山を見たのは、1890年(明治23)4月4日、カナダを出港し、横浜に入港した汽船アビシニア号の船上でした。晩年、焼津の海を気に入り、何度も訪れたというハーンが見た風景はどのようなものだったのでしょうか。

焼津小泉八雲記念館には八雲の残したスケッチや言葉が展示されています

かねてからの希望でようやく実現した日本取材に胸を高鳴らせていたハーンの目には、初めて見る霊峰富士の姿が印象的に映ったに違いありません。ハーンはこの時の印象を、アメリカの雑誌に寄稿したエッセイ「日本への冬の旅」の中で、「心地よい驚きの衝撃とともに、それとなく目で探していたものが見えてきた-これまでの期待を遥かに上回って-しかし水色の朝空を背に幻の如く夢の如く白い姿であったので、最初見たときにはそれに気づかなかった。一切の形あるものを越えたところに、雪を抱いたこの上なく優美な山容-富士山だった。(仙北谷晃一訳)」と綴っています。

八雲が愛した焼津の風景

横浜到着後、各地を転々としたハーンが、14年間の日本時代で最も富士山に親しんだ場所は、地理的な理由から、晩年の避暑地として彼が愛した焼津であったと考えられます。ハーンは最初の焼津滞在の帰りに、松江時代の教え子と共に富士山に登り、その体験をエッセイ「富士の山」に記しました。そして、富士山から眺めた焼津を「荒波がよせる駿河の沿岸と、青いギザギザのある伊豆半島、それに私が夏を過ごしてきた漁村のある場所-あのほのかな夢のような丘と岸辺の、針先でついた一点。(村松眞一訳)」と表現しています。この登頂は、ハーンと富士山の距離を縮め、以降彼が焼津でスケッチした絵には、その多くに駿河湾の後方に望む富士山の姿が描かれています。

ハーンが富士山を記した作品は、上記の2つ以外にもあります。武家の家に生まれた主人公が、明治維新の文明開化に乗じ洋行する物語「ある保守主義者」には、故郷日本へと帰還する船上から主人公が見た富士山が、日本人にとっての祖国の象徴として描かれています。日米修好通商条約締結による開国後、外国人の富士登山者も増え、多くの知識人がその記録を彼らの作品に残していますが、ハーンほど日本人の心に寄り添いながら、精神的な意味を持つ存在としての富士山を描いた人物はいないでしょう。

かつて八雲が訪れた浜当目海岸

「海の方は、何マイルも続く水面の向うに雄大な眺め-ギザギザの青い山並みが、地平線に向かってくっきりと群がるさまは、巨大な紫水晶のよう。そしてその彼方、左手には、まぼろしのような富士の神々しい姿が、ひときわ高く聳(そび)え立っている。(村松眞一訳)」

良く晴れた日に海岸に赴けば、ハーンが「焼津にて」の中にこう描写した風景を、200年以上の歳月を経た今日でも見ることが出来ます。めまぐるしく過ごす日々の歩幅を一旦緩めて、潮騒に耳を澄ませながら、ハーンの愛した焼津の風景を眺めてみるのもよいのではないでしょうか。

まちかどリポーター:AYAKO
この記事を書いた人
焼津まちかどリポーター 
AYAKO

焼津小泉八雲記念館学芸員。日本大学国際関係学部非常勤講師。比較文学専攻。焼津小泉八雲記念館では、企画展示会や八雲関連イベントの企画を担当している。
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