山口乙吉(出典:焼津小泉八雲記念館)
焼津まちかどリポーターの那須野です。
焼津小泉八雲記念館学芸員として、八雲の文学研究を行いながら、その魅力を市民の皆様にお届けする仕事をしています。
焼津を晩年の避暑地として愛した小泉八雲。八雲は焼津のどのようなところに惹かれ、どうような日々を焼津で過ごしていたのでしょうか。ここでは八雲の愛した焼津の「海」と、「食」からみる焼津での生活に焦点をあてて、ご紹介したいと思います。
日本を愛し、日本を記した小泉八雲(1850-1904)。彼がアメリカの出版社に書き送った手紙の中には、「庶民の生活に分け入り、彼らの考え方で日本という国を見たい。」という来日前の取材の意気込みが記されていたといいます。この言葉のとおり、14年間におよぶ八雲の日本滞在は、日本の生活様式に習い、常に日本人の心に寄り添う姿勢を一貫して貫くものでした。
日本庭園のある武家屋敷に住み、家では和服に身を包んでキセルをふかしていた八雲ですが、その食生活はどうだったのでしょうか。以下に、八雲の食に関するエピソードをいくつか挙げてみます。「松江に赴任した当時、 滞在先の旅館に頼んで、特別に西洋の目玉焼きを出してもらった」、「和食が続きすぎて体を壊し、牛肉、鶏肉、ソーセージなどを貪食した」、「和食もたいていの物は何でも食べたが、刺身、寿司はあまり食べず、好物はビフテキ、プラムプティングであった」。これらの記録から、食に関しては西洋を捨てきれなかった小泉八雲像が浮かんできます。
焼津での八雲の食事は、逗留先の家主山口乙吉の手料理でした。浜通りで魚屋を営んでい た乙吉は、めずらしい魚を調理しては八雲に食べさせたといいます。八雲は、随筆「乙吉のだるま」の中で、魚を料理する乙吉の巧みな包丁さばきや、手際のよい料理の盛り付け場面、立派なホウボウが八雲の夕食のために用意されたことなどを綴っています。また、一緒に焼津に来ていた八雲の長男一雄の回想録には、乙吉に連れられ、当時浜当目にあった料理屋、通称「鰻屋」へ赴き、鰻の蒲焼きを食べることが八雲の焼津での楽しみの一つだったことや、現在においても焼津の特産品である鰹の「へそ」の塩焼きを食べて、とても美味しいと感激したというエピソードも記されています。
焼津の八雲が、東京で留守番をしていたセツ夫人やアメリカの友人に宛てた手紙には、「乙吉はサメ肉をわれわれの夕食用に上手に料理してくれました。身は白くすばらしい味でした。」「私は焼津が好きです。一軒家を借りたいほどです。魚屋(乙吉)が食事をこしらえてくれます。」など、食事に関する内容が繰り返し記されています。本来ならば格別口に合うことはなかった乙吉の日本料理が、八雲にとってすばらしいものであったのは、わずか 4 歳で両親との別離を経験した八雲が、乙吉の作る食事の中に、家庭的で愛情溢れる温かなぬくもりを感じ取ったからではないでしょうか。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)(1850-1904)
ギリシア、レフカダ島でアイルランド人の父とギリシア人の母との間に生まれる。 19才で単身アメリカに渡り、同地で20年間ジャーナリストとして活躍。1890年にルポライターとして来日。来日後は英語、英文学講師として松江、熊本、東京などで教鞭をとる傍ら、日本に関する13冊に及ぶ著作を英米で発表。松江で出会った小泉セツとの結婚を機に日本に帰化し、小泉八雲となる。1898年以降、ほぼ毎年の夏休みを焼津で過ごし、焼津に関する著作も残した。 |
◆前回の記事(小泉八雲と焼津の海)はこちらからご覧いただけます。
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焼津まちかどリポーター
AYAKO
焼津小泉八雲記念館学芸員。日本大学国際関係学部非常勤講師。比較文学専攻。焼津小泉八雲記念館では、企画展示会や八雲関連イベントの企画を担当している。
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