元々手ぬぐいで作られていた手ぬぐい襦袢(じゅばん)。
どのような道のりを経て、今の魚河岸シャツへと変身していったのでしょう。
その道のりをたどります。
引き続き、川口呉服店の店主 川口松男さんにお話を伺います。
多様化する手ぬぐい襦袢
手ぬぐい襦袢の用途が広がっていく背景は、やはり水産業や水産加工業と大きく関わりがありました。
「焼津の漁船と富士山(昭和31年頃)」 所蔵/焼津市歴史民俗資料館
この写真は健康長寿を祝う会記念品 2021年カレンダー ~懐かしの焼津~ にも使用されています。
「漁師が鰹を獲るのに、枕崎の方に出かけるでしょう?」
川口さんの話を聞いて、思い出したことがありました。
焼津の鰹節職人たちは、1889年、東海道線が開通したのを皮切りに、高知県等で先進技術を学ぶようになります。
その結果、焼津の鰹節の技術は格段に上がり、全国から技術指導のために焼津の鰹節職人が招かれるようになります。鹿児島県枕崎市も招かれた地の一つでした。
漁場として、また鰹節の指導者として招かれ、枕崎市には焼津の人たちの行き来がありました。
『焼津市史 図説・年表』より
川口さんによれば、枕崎へ出かけた人たちの帰る際の土産として、奄美大島の特産品である大島紬の生地が持ち込まれるようになったそうです。
そして、焼津で水揚げされた魚の多くは東京築地市場に納められていました。
おしゃれのまち銀座は築地のすぐ横に位置します。銀座で名をはせていたのが歌舞伎座を彩る役者さんたち。
たとえば、歌舞伎役者の初代・市川団十郎が稲妻文から考案したといわれる三枡市松。
三代目・坂東三津五郎の名前にちなみ(三五六→みつごろう)つけられた三津五郎縞。
「まだまだ着物文化が残っていた時代。昔から歌舞伎役者にまつわる柄がたくさんあるように、役者たちが着こなす独自の着物ファッションが、当時の流行の先端だった。」
人々は、この最先端のファッションを生活に取り入れていきます。東京で歌舞伎役者と同じ浴衣の反物を買い付け、手ぬぐい襦袢に仕立て、おしゃれ着として着こなし、夜のまちへと繰り出しました。
「反物の長さは一反約12メートル。
約4メートルを必要とする手ぬぐい襦袢3着分が出来上がる。
一枚は自分用に、一枚は友達用に、そして一枚は贈答用に。
当時の人たちはみんなで共有して、シャツを楽しんでたようだね。」
こんな風習もあって、生地の種類も増えていきます。
更に浜松で注染染めの生地が作られるようになって、色や柄も広がっていきます。
主に手ぬぐいを用途とする生地は総理(ソーリ)。また浴衣として使われるのは岡(オカ)(参考 手ぬぐい生地の名前について 神野織物)。
どちらもさらし木綿の一種ではあるが、岡ははすこし厚手。今はふたつの素材で魚河岸シャツが作られますが、暑さをしのぐという面では、目の粗い総理の方が有利なのではと素人は思います。川口さんは、どちらも日本の湿気を含む夏の暑さに適しているが、工夫の仕方が違うのだと言います。
総理は、水分や汚れを拭きとり、それを洗って再利用するというのが主な用途。だから生地をのり付けせずに仕上げるため、通気もよい。岡は浴衣として使われる生地。密度はあるが、のり付けし、表面を硬くすることで体との間に空間を空け、暑さをしのぐ。
最終的には好みなのだろうと思いました。
私としては、耐久性や透けるリスクなどを考えると、岡の方がいいなあと思います。
「どっちにしても同じ綿素材だし、着ていくうちに同じように柔らかく、使いやすくなっていくんだよ。」と川口さんは言います。
また、褪せていくものを楽しむ文化が日本人にはあるのだと川口さんは言います。
見せていただいたのは、生地の見本。額に入れて日にさらしてあるので、表は褪せ、裏は染め上げた時と近い状態を保っている。着ていくうちに生地がどんなふうに変化していくのかが分かります。
「日本人は、昇る朝日も好きだが、沈む夕日にも心を動かされる。
褪せていく自分の服を、愛おしむ。そんなDNAが日本人の中にあるんだよ。」
と、川口さん。
生地、色、模様。手ぬぐい襦袢が多様化していく中、昭和52年仕立て屋である森要三さんが今のデザインを考案。今もその形を守っています。
― 手ぬぐい襦袢と魚河岸シャツの違いは何でしょうか。
大きな違いは森要三さん独自の柄にあるのだそうです。
焼津の荒祭に欠かせないのが豆絞りの手ぬぐい。
この豆絞りの柄に魚河岸のマークを入れたのが森要三さん独特のデザイン。いかにも焼津らしい柄が出来上がりました。
こちらは川口呉服店のもの
こちらはご近所高橋染物店のもの
川口さんは、魚河岸シャツの品質維持を目的とした焼津魚河岸シャツ協同組合に所属していますが、協同組合では、魚河岸シャツの定義として「魚河岸のロゴや文字が入っていること」というのを一つとしています。
そして現在、協同組合所属の各店舗では、色とりどりの魚河岸柄の生地が魚河岸シャツとして仕立てられています。
魚河岸シャツに込めた思い
― 川口呉服店の魚河岸シャツのこだわりは何でしょうか。
「他のところにはない、焼津の夏になじむシャツを作りたい。」
川口さんがこだわっているのは、絵柄や模様です。
歴史を紐解くと、模様には色々な役割がありました。
病気など、人に害を与えるものから身を守るため。
平安時代、病を予防したり治したりするお金がない庶民たちは、着るものに模様を描くことで悪い気から身を守ってました。
「お金持ちになりたい!」という願いを、実際に衣服にお金を描くことで表現する例もあるし、花札、トランプといった嗜好品も描かれます。
「男の子の衣服にはトンボ柄、女の子にはチョウチョ柄。これは定番の柄。
トンボは生態として後ずさりすることができない。そこから転じて出世の意味を込めるようになった。チョウチョはシンデレラだね。美しく変身してほしいという願いが込められている。」
「はいからさんが通る」などでおなじみの矢羽根柄は、若い女性のための柄。
一方方向に飛んでいく矢羽根には、お嫁に行ったら戻ってくるなという思いが込められているんだそうです。
「模様にはそれぞれ意味があるんだよ。」
昨年の夏にはアマビエ模様の魚河岸シャツを作製。
コロナ終息の願いを込めました。
また、焼津といえば忘れてならないのが荒祭。そして守り神として祀られている日本武尊。焼津では日本武尊についてはこんなエピソードも今に伝えられています。
賊に火を放たれた日本武尊が草薙の剣によって難を逃れた後、日本坂に立って焼津の地を望み、焼津の地の無事を喜び祝福した。
「日本坂から焼津の地を見下ろす日本武尊を想像すると、とても感慨深かった。」と川口さんは言います。
倭(やまと)は 国のまほろば 畳付く 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し愛(うるは)し
川口さんは、書家の天峯さんの書いた、日本武尊の国偲び歌を魚河岸シャツにデザインしました。
「型紙として残っていれば、きっとその時の世相や人々の想いが生地として残っていく。」
いずれは焼津市ゆかりの作家、小泉八雲も題材としてみたい。
これからの夢をそう語ってくれました。
取材を終えて
「直線裁ちで無駄を省いているというのは着物という衣服の誇れる点。
染色の技術としては、金沢や関西の友禅などと違って、東京で染められた浴衣地などは水の質が悪く(きれいではない)美しい白を出すことができなかった。それを逆手に今の浴衣や手ぬぐいの柄や色が発達した。
浴衣や手ぬぐいには技術や知識や文化が詰まっている。
和装で過ごすという習慣はほぼなくなってしまったが、個人的には着物以上に日本という国に適した衣服はないと思っている。魚河岸シャツが、着物文化を見直すきっかけとなってくれれば。」
最後に川口さんがそう話してくれたのが印象的でした。
私が魚河岸シャツを好きになったのは、日本独特の布で作られたこのシャツが、Gパンなどとよく似合うということに気づいたのがきっかけでした。
川口さんの話を聞いて、魚河岸シャツのもっと奥に着物の技術や知識、文化、そして焼津の歴史が息づいているんだと感じました。
「魚河岸シャツってかっこいい!」
そんな風に思えたら、その一歩奥を覗いてみる。
そうすれば、もっともっと面白いことが待っている。
そんな風に感じたお話でした。
焼津市役所のクールビズ活動などをきっかけに、魚河岸シャツの知名度は格段に上がりました。その反面、粗悪な偽物が出回るようになります。川口呉服店を始め魚河岸シャツを販売する小売店は「焼津魚河岸シャツ協同組合」を設立。定義を明確化してブランドとしての地位を守っています。
魚河岸シャツは焼津の大切な資源。
いつまでも残っていってほしいなあと思います。
・川口呉服店
魚河岸シャツはもちろんですが、シャツの材料となる反物も豊富。手ぬぐい一本分から切り売りしてくれます。
お店情報はこちらから
・高橋染物店
こちらも川口呉服店同様人気店。
自身のお店で独自に染めた生地を使った魚河岸シャツが人気。
お祝い旗なども請け負ってくれるとのこと。
住所:焼津市焼津市小川新町1-12-10
TEL:054(628)2554

焼津まちかどリポーター
かめ
焼津生まれ・焼津育ちの野菜ソムリエ。地元の野菜を調べる内、"生きた文化遺産"と呼ばれる「在来作物」と出会い、保存活動を続けている。活動の中で知った焼津の魅力を紹介しようとまちリポに参加。
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